祭りのあとの
約12,400 文字(読了目安: 約25分)
祭囃し編の綿流しの夜、詩音が園崎本家に泊まる話です。
みんなで力を合わせて運命を打ち破ったあの日の夜。
奉納演舞も終わった綿流しの時間、詩音は沢辺のはずれでひとり、綿の流れていく沢の水面を眺めていた……。
※以下の注意点にご了承いただける方のみ、ページをおめくり下さいませ。
途中、目明し編・祭囃し編を始めとするひぐらし本編のネタバレや重い話などを扱っております。
園崎姉妹に対する解釈違い、公式ストーリーの読み込み・理解が浅い等あるかもしれませんが、ご容赦下さいませ。
1
優しい月明かりに照らされ、沢の水面がきらきらと光っている。その光の上をいくつもの丸く白い綿がさらさらと下流に向かって流れてゆく。詩音は沢辺の砂利の上にしゃがみ込み、その様子をじっと眺めていた。
この光景を目にするのは、いったい何年ぶりだろう。昨年、詩音は綿流しのお祭りには行かなかった。そもそも、"園崎詩音"として雛見沢に近づくことすらできなかった。一昨年は全寮制の聖ルチーアに幽閉されていて、地元のお祭りごときを理由に学校の敷地外に出ることなど叶わなかった。少なくとも二年はこの生まれ故郷を上げての一大イベントに参加しなかったことは確実であった。
小さい頃は毎年見ていた景色だけれど、こんなにもきれいで美しいものだっただろうか――。数年ぶりに見ている景色だから? いや、それは違う。きっと、いまの自分の心が"きれいで美しい"ことを素直に感じることができるからなのだろう。憑き物がすっかり取れたかのように、すがすがしい気持ちが詩音の心の中には広がっていた。
「詩音? ここにいたんだ」背後から声を掛けられ、詩音は振り返る。声の主は魅音だった。「どしたの、まだ綿なんか持ったままで」
魅音の隣にはレナもいる。そうだ、私はみんなから離れて、人も少ない沢辺の外れの方まで来てしまっていたのだ。詩音はばつが悪そうに魅音たちから目をそらして、再び沢の水面を見つめながら言った。
「……なんだか今日は一日長かったなと思うと、ぼーっとしちゃって」
そう言って詩音は手のひらから綿をそっと水面に浮かべようとした。
「あっ、だめだよ詩ぃちゃん。ちゃんと"オヤシロさまありがとう"って言わなきゃ」
レナに制止され、詩音は手を引っ込める。そういえば、綿を流す前に何か作法があるんだっけ。詩音は幼い頃の記憶を辿る。
「レナは何年も雛見沢を離れていたのに、私たちよりずっと信心深いんだよね」
魅音はぽつりとつぶやく。するとレナは首を横に振った。
「ううん、むしろ雛見沢を離れていたから、なの。離れてみて初めて、その存在の大きさに気づいたって感じかな、かな」
その言葉には重みがある、と詩音は感じた。彼女は昨年、魅音のふりをしてレナとバスの停留所で話をした時のことを思い出していた。レナはオヤシロさまは"いる"のだと話していた。そして、雛見沢を離れた自分の後ろをずっとついてきたのだと。夢枕に立たれたこともあるとも言っていた。あの頃、悟史の異変に不安を募らせていた詩音はその話を聞き、とどめに悟史も"オヤシロさまの祟り"の前兆を経験していると告げられ、ひどく動揺したことを覚えている。
あの時から少しずつ、詩音の中で何かが狂い始めていた。悟史くんに会う機会がほしくて魅音に頼み込み、私は魅音のふりをして雛見沢分校に向かわせてもらった。そこで悟史くんを励まそうとしたのだが、何も良い言葉をかけてあげることができず、むしろ余計に彼を苛立たせてしまっただけだった。そして、他ならぬ悟史くんの大切な妹である沙都子を私は――。
そこまで記憶の扉を開けてしまい、詩音ははっとしてかぶりを振った。嫌な記憶を思い出してしまった。お姉の姿で大変な事件を起こしてしまったことについては精一杯謝ったし、沙都子にも後日きちんと"詩音"として謝罪をした。二人はそれで許してくれて、すべて終わったことのはず。しかし、それで詩音の中の罪悪感は跡形もなく消え去ったわけではなかった。
パラレルワールドなんて、信じないけれど。詩音はいつの頃からかときどき、夢を見るのだった。この世界とは違う、どこか別の世界にも"園崎詩音"は存在していて、その世界の詩音は自分の中で狂気がどんどん大きく育っていくことを止められず、"鬼"のように憤怒と憎悪で狂った感情のままに行動を起こしてしまい、取り返しのつかない過ちをたくさん犯してしまう。思い込みにとらわれ、身近な人たちをたくさん傷つける。そしてその自分の犯した罪に気づくのは、自分の手でたくさんの人の命を奪った後、マンションのベランダからふいに足を滑らせた直後のこと――。
そこでいつもはっと目が覚める。自分の頬と枕は涙に濡れて冷たく、しんとした部屋の静けさの中、その夢の恐怖が徐々に全身を駆け巡る。自分が恐ろしい拷問道具や凶器を手にして、大好きな人たちの身体も心も傷つける――その感触があまりにリアルに、この手に残っているような気がして、がたがたと震え出す両手で自分自身の身体を抱きしめる。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。涙をこぼしながら誰にともなくそう繰り返し、自分以外には誰もいないマンションの一室で詩音は独り、その悪夢の恐怖と闘ってきたのだった。
今日、園崎本家の地下祭具殿で山狗部隊との攻防戦を繰り広げた後、入江が詩音に告げた真実と、入江診療所で実際に彼女が自分の目で確かめた光景は、絶望や悪夢と闘い続け、自分の使命を果たそうと強くあり続け、そして時に挫けながらもひたむきに一縷の光を信じ続けた彼女に与えられた天からの幸福な贈り物なのかもしれなかった。
確かに、まだ悟史くんは完全に"帰ってきた"わけではない。監督から現在の悟史くんの病状を聞かされた時は、目の前にやっと見つけた幸せを引き裂かれるような思いがした。しかし、監督は言ってくれた。
「悟史くんは帰って来ようとしている。私も、帰ってきてほしいと手を伸ばしている。お互いが手を伸ばし合えば、届かないはずはないです」
監督は、必ず元気だった頃の悟史くんを連れ戻してみせる、と固く約束をしてくれた。監督は嘘をつくような人ではない。この一年間、私は何度も悪夢に呑み込まれそうになりながらも、信じて待ち続けたのだ。この空の続く場所には、もう彼はいないのかもしれない。そんな絶望と諦観が心の奥に渦巻く中、それでも信じて願って、待っていようとすることに比べたら、監督の強い意志と約束の言葉を信じて待っていることなど、どれだけ幸福なことだろうか。
今はまだ普通に話せなくても、あの笑顔が見られなくても、むぅって言ってくれなくても、頭を撫でてはくれなくても……。彼がそこに生きていてくれたというだけで、奇跡のようなものではないか。私はこの奇跡に感謝をしたい。今日一日、心が目まぐるしく揺さぶられ、さまざまな感情を一度に経験したような気がするが、私の今の気持ちはそこに帰着していた。
「……オヤシロさま、か」
詩音はそうつぶやいて、自分の持っている綿をじっと見つめ、ゆっくりと自分の額にあてた。そして綿流しの作法に倣って、胸元と臍のあたりにもあてる。綿が自分に触れるたびに、ありがとう、と感謝の気持ちを込めてみた。
「……ありがとう」
そう言って詩音は両手でそっと綿を水面に浮かべる。綿はすぐに沢の流れに乗って、他の綿たちとともに遠く流されていった。
2
詩音が立ち上がって伸びをしていると、複数人で砂利を踏みしめる音が遠くから近づいてきた。
「あっ、詩音さん、こちらにいらしたのですわね」沙都子の声がして、振り返るとそこには沙都子のほかに梨花と羽入、そして圭一がいた。「魅音さんとレナさんが詩音さんを探しに行ったきり、なかなか戻ってこないのでわたくしたちも探しにまいりましたのよ」
「ありゃ、みんなで私を探してたんですか? やれやれ、人気者は罪ですねえ」
そう言って詩音が肩をすくめて見せると、魅音がすかさず突っ込みを入れる。
「アンタが一人でふらふらとどっかに行っちゃうからでしょーが!」
魅音のその言葉にみんながくすくす、あははと笑いだす。その中に笑顔いっぱいになった沙都子を見つけ、詩音は思わず彼女に近づき、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「なっ……なんですのっ、詩音さん、急に頭を……!」
沙都子は顔を少し赤らめて、戸惑ったような表情を浮かべる。そんな沙都子がたまらなく愛おしい。詩音は沙都子の頭に手を置いたまま、腰をかがめて彼女と目の高さを合わせ、優しくあたたかい声で言った。
「沙都子、頑張りましたね……」
沙都子はきょとんとしている。今の私には、こんな言葉しか掛けてあげられないけれど……。詩音は"にーにー"のために強くなろうと努力し、そして自分のように、いや、きっと自分以上にまっすぐに彼の帰りを信じ続けた沙都子にも、幸せな未来がすぐそこまで訪れていることがわかっていた。それを教えてあげることはできないのが、たまらなくもどかしかったが。監督との約束なの、ごめんね、沙都子――。そんな想いを込めて、詩音はさらに沙都子の頭を撫で続ける。
「あっ……あんなの、わたくしにかかれば朝飯前ですわ! 詩音さんこそ、今日は大活躍だったではないですの!」
沙都子は今日一日のことを褒められたと思ったのだろう。そんなことを話す彼女はいつもよりいっそう可愛く見えた。今は何も教えてあげることができない分、"その時"が来るまで私はこれからも沙都子の頼れる"ねーねー"であり続けよう。ううん、今よりもっともっと、強くて優しい沙都子の"ねーねー"になってみせよう。詩音は心の中でそう固く決心するのだった。
「さて……と。綿流しをやったら祭りはおしまいか? なんだか名残惜しいぜ」
ふいに圭一が遠くを見つめながらそうつぶやく。その場にいる誰もが同じ気持ちだった。今日一日の、運命を打ち破るための決死の戦い。それを共にした仲間たちとこのまま解散するのは本当に惜しかった。
「そうだね。でも今日はみんな揃って祭りの最後までいられたし、残念だけどこれで解散かねぇ」
そう答えた魅音に、詩音は怪訝の目を向ける。魅音のことだから、てっきりこの後みんなを宴会にでも引っ張っていくのかと思ったのだ。詩音が疑問を口にしようとした時、魅音は再び口を開いて言った。
「みんな、今日はあまりに非日常な体験をして、身体も心も相当疲れていると思う。まだまだ大丈夫、って思ってるかもしれないけど、疲労は自分の気づかないところにどっさり溜まっていることも多いからね。だから今日はこのままみんな家に帰って、ゆっくり休むこと。その代わり……」そこまで真面目な顔をして話していた魅音は、にやりと笑って続ける。「後日、今日の"お疲れ様会"を開こうと思う! 場所はエンジェルモート! 料理とデザートの食べ放題コースをつけちゃうからね! 詩音、もちろんオッケーだよね?」
部長の提案に、部活メンバーたちの顔がぱあっと明るくなる。さすがはクラス委員長であり部長である魅音だった。みんなに無理をさせないように帰宅を促し、日を改めた宴の開催を約束する。仲間たちのコンディションや気持ちをしっかりと汲み取ることのできる魅音ならではの提案だった。
「ええ、もちろんです」
詩音はにっこりと笑って答えた。
沢辺をあとにし、みんなで神社の鳥居に向かって歩いている途中、詩音はふいに肩を叩かれた。振り返ると、そこには魅音がいた。
「詩音、今日はうちに泊まっていかない?」
「えっ?」
魅音の突然の提案に、詩音はびっくりする。今日は非常事態だったから、葛西とともに入江を連れて園崎本家に飛び込んだが、普段であれば詩音はその門をくぐることはあまり許されることではなかった。魅音からそんな誘いを受けるのも、自分たち双子が離れて暮らすようになってから、初めてのことだった。
「さっきの"お疲れ様会"の相談もしたいしさ。それに詩音だって、いまから興宮まで帰るのしんどいでしょ?」
「でも……鬼婆さま、怒るんじゃない?」
詩音の懸念はお魎のことだった。お姉がいくら歓迎してくれても、鬼婆、もとい祖母にとって私は結局、今でも"忌み子"でしかないのだから――。
「大丈夫だよ。婆っちゃは綿流しの日は宴会にも出ずにすぐ休むんだ。朝も私が学校に行く時間はまだ寝てるかな。だからそれまでに葛西さんに迎えに来てもらえばなんとかなるって」
そう言って魅音は詩音に笑いかける。今日の魅音はいつもよりどこか積極的な感じがした。お魎のことは依然として気にかかるが、詩音は魅音の誘いに乗ることにした。本当に今日は色々なことがありすぎて、余計なことを考える余裕はなく、一刻も早く横になりたいというのが本音であった。
鳥居のところで沙都子と梨花、羽入の三人と別れ、圭一とレナ、魅音、詩音は鳥居をくぐって石段を下りていく。下りきった場所には見覚えのある三台の自転車が止まっていた。詩音以外の三人はそれに乗って来ていたのだ。
「んじゃ、おじさんは詩音と一緒に帰るから。詩音は歩きだから自転車押して行くよ」
魅音は圭一とレナの二人を先に帰そうとしている。詩音は思考を深く巡らせることはできないが、なんとなく魅音が自分とふたりきりになりたがっていることが伺えた。
「わかったぜ。それじゃあ俺とレナは先に帰るよ。魅音、詩音、今日はおつかれ! また明日な!」
圭一が自転車に跨りながら言う。
「魅ぃちゃん、詩ぃちゃん、お疲れさま! ふたりともゆっくり休んでね。それじゃあ、おやすみなさい!」
レナも自転車を漕ぎ出す準備をしながらにっこりと笑う。
「圭ちゃん、レナ、今日はありがとうね! おやすみー!」
「おやすみなさい、圭ちゃん、レナさん」
魅音と詩音は自転車を発進させる圭一とレナに手を振る。二人の自転車の灯りが見えなくなるまで、双子の姉妹はその場に佇んでいた。
「それじゃ、私たちもいこっか」
魅音が自転車のストッパーを外しながら詩音に声を掛ける。
「うん」
詩音はそれだけを答えて、自転車を押して歩き出した魅音に続いた。
3
月明かりとわずかな街灯、そして自転車のライトに照らされた道を魅音と詩音は並んで歩いた。魅音と二人きりになることが、なんだかとても久しぶりであるように詩音には感じられた。魅音が口を開かないので、詩音もただ黙って夜道に歩を進める。普段であれば、どちらからともなく馬鹿みたいな話を始め、お互いに突っ込んだり突っ込まれたりを繰り返して笑いこけながら歩いているところだろう。けれど、今日だけはいつもみたいにふざけた話をする気分にはならなかった。
「……月、綺麗だね」
魅音が夜空を見上げながらつぶやく。詩音も顔を上げて空を仰ぐと、そこには大きな満月が浮かんでいた。あの満月の明かりが、綿を流した沢の水面を柔らかく照らし出していたことを思い出す。
「……うん」
詩音は頷きだけを返す。結局、二人が園崎本家に着くまでに交わした会話は、それだけだった。
園崎本家に到着した後、魅音は自転車を所定の場所に止めてくると、詩音を自分の部屋に案内した。お風呂の準備をしてくるから待ってて、と魅音は詩音に告げ、部屋を出て行った。二十分ほど待って帰ってきた魅音は、婆っちゃはもう寝てるから今のうちに、と先に詩音にお風呂を勧めた。
「ありがとう、お姉。ひと晩、お世話になります」
詩音は着替えとタオルを持って部屋を出る時、そう言って魅音にぺこりと頭を下げた。魅音はいいっていいって、という風に笑顔で手をひらひらと振っていた。
一人暮らしの場合、ついついシャワーで簡単に済ませてしまうことが多い。大きな湯船に手足を伸ばしてゆっくりと浸かることは、詩音にとって久しぶりのことだった。お湯のあたたかさをじっと感じていると、今日一日の疲れが溶けて消えていくようだ。入浴剤の入ったお湯で肌を撫でながら、詩音は昔のことを思い出す。
昔はこのお風呂場で、よく二人ではしゃぎ回ったっけ。幼い頃の"双子の妹"の姿を思い浮かべると、つい顔がほころんだ。結った髪をほどいて服も脱いでしまえば、どちらが"魅音"で、どちらが"詩音"なのか、それは自分たちにしかわからないことだった。
「じゃあ、お風呂から上がったらわたしは"詩音"ね!」
……そんなことを言ってふざけて、"魅音"と"詩音"を二人で共有し合っていた、もう戻れない遠い昔のこと。泣き虫で、怖がりで、いつも自分の後ろに隠れていた私の双子の妹、"詩音"。そんな詩音はこの園崎家において、跡継ぎとして"鬼"の名を与えられた"魅音"である自分とは明らかに異なる扱いを受けていた。彼女のことが子ども心ながらに不憫でたまらず、魅音だけが優遇されるようなイベントがあると、私は詩音に"魅音"を譲った。臆病な詩音は、最初こそ「いいの?」と不安そうな顔で何度も確かめてきたが、私はそのたびに笑って彼女に"魅音"を渡した。あの日だって、鯛のお刺身が食べられるという夕食会が終われば、私たちはまた二人で"魅音"と"詩音"を共有できると思っていた――。
そこまで考えて、詩音は顔にばしゃっとお湯を浴びせた。今日はどうも、気を抜くと良くない方向に思考が飛んで行ってしまうようだ。私たちは力を合わせて、大きな陰謀に打ち勝ったのに。そして、幸せな真実をこの目で確かめたのに。どうしてそっと閉じておきたいような記憶ばかりが蘇ってくるのだろう。魅音が部活メンバーに言っていたように、自分の気づかないところで相当の疲労が溜まっているのかもしれない。詩音はもう一度お湯で顔を洗うと、浴槽を出てお風呂から上がった。
髪を乾かす前に、詩音はお風呂が空いたことを魅音に伝えに行った。それから洗面所に行って髪を乾かす。髪の長さを変えるつもりはないが、そろそろ毛先や全体を整えてもらいに美容室へ行ってもいいかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、詩音は自分の髪に指を通していた。
長い髪がようやく乾いて、詩音は魅音の部屋に戻る。さっき魅音を呼びに来た時は気づかなかったが、部屋には二人分の布団が敷いてあった。詩音はその片方の上にぽふん、と腰を下ろして座った。柔らかそうな布団を見ると、急に身体の力が抜けてしまったのだった。
布団の中に潜り込んでしまうと、魅音が帰って来るより先にぐっすりと眠りこけてしまうかもしれない。詩音はぼーっとしながら布団の上に座って、魅音が戻ってくるのを待った。魅音は"お疲れ様会"の相談をしたいと詩音に言っていた。エンジェルモートの料理・デザート食べ放題のコースは、通常だと一人いくらだっけ。確か小学生は割引があったはずだ。義郎おじさんに掛け合えば、さらに安くしてもらえるかもしれない。人数は、ええと、羽入って子もいるから何人になるんだっけ。お姉は部活メンバーのほかにも誰か呼ぶつもりなのだろうか、監督とか。私も誰か呼んでいいなら、葛西を連れて行こうかな。彼は見かけによらず、甘いものが大好物なのよね。そして時間帯はやはりお昼から午後にかけてがいいだろうか。学校のない土日なら店舗の貸切予約をすることも考えなければならないかもしれない……。
ふわふわとして眠たい頭でそんなことを考え続け、なんとか意識を保っていようとしていたところに、魅音が戻ってきた。
「ありゃ、詩音、寝てなかったんだ。布団敷いといてあげたのに」
魅音は白い着物に身を包んでいた。園崎家次期当主としての役割を果たす際も魅音は真っ白な着物を着用するのだが、いま着ている着物は部屋着としての簡素なもので、似て非なるものなのだとか、前にちらっと話していたのを詩音は聞いたことがある。
「だって、"お疲れ様会"の相談をしたいって、お姉が言ったんですよ? 費用とか日程とか、あれこれ考えていたところなんですから」
「うん、そうだったね。ごめんごめん。でもさ」魅音も詩音の隣の布団に腰を下ろして続けた。「よく考えたら、いまの段階で相談しても仕方なかったよ。みんなの都合を聞くのも忘れちゃったし、実際の費用とか予約の可否とか、義郎おじさんに確認してからじゃないとわかんないもんね」
というわけで、今日はもう寝ようよ。そう言って魅音は再び立ち上がって部屋の電気を消そうとする。詩音の心の中には違和感があった。あの魅音がそこまでの考えに及ばないうちに、軽率に相談を持ち掛けるとは思えなかったので、詩音は思わず疑問を口にしてしまう。
「ちょっと待ってよ、お姉。本題がそんな感じなのに私を本家にまで呼んだんです?」
「ごめん、私もなんだか疲れちゃっててさ。さっきお風呂の中で気づいたんだ」魅音は申し訳なさそうに言う。「でも、たまには二人で一緒に寝るだけっていうのも、悪くないかなって」
そう言って魅音が電気を消す直前、彼女の顔に少し寂しそうな笑顔が浮かんでいたのが詩音の目に映った。その時、詩音は何かを悟ったような気持ちになった。もしかして魅音は、ただ自分と一緒にいたいという、ただそれだけの理由で自分を本家に泊まらせたのだろうか――。詩音は離れて暮らす"妹"のいじらしさに、心がきゅっと何かに掴まれるような感覚を覚えながら布団の中に横たわった。
4
満月の明かりだけが部屋の窓から差し込み、魅音と詩音が並んで寝ている布団を照らす。電気を消してからどのくらいの時間が経っただろうか。あまりに疲れすぎていると逆に眠れない、というのはまさに今のことだと詩音は思った。
魅音は寝てしまったのだろうか。お姉、起きてる……? そう詩音が声を掛けようかと思った、その時。
「ねえ詩音、そっちの布団に行ってもいい?」
詩音は一瞬、何を言われたのかわからなかった。そっちのふとんに、いってもいい? 頭の中で魅音の言葉を反芻して、詩音はようやく魅音が何を言ったのかを理解し、戸惑う。
「えっ……きゅ、急になに……?」
詩音は顔を隠すようにして布団を目の下まで引き上げる。つまり一緒の布団で寝たいということだろうか。もう子どもじゃあるまいし……。だいたい、身体も大きくなってるんだから狭いだろう。詩音は魅音の意図がまったく読めず、困惑するばかりだった。
「行っちゃだめ……? ……お姉ちゃん」
魅音が小さな声でぽそりとつぶやいた言葉に、詩音は再び心をきゅっと掴まれるような感覚を味わう。ああもう、この子は――。詩音は数秒考え込むふりをした後、魅音のいる方とは反対方向の布団の端に身体を寄せ、顔を魅音から背けたまま黙って掛け布団を持ち上げてぽっかりと空間をあけて見せた。
「……ありがと。それじゃあ、お邪魔します」
魅音は自分で言っておいて照れくさいのか、敬語でそう言ってから自分の布団を出て、詩音の布団の中に潜り込んできた。詩音が布団を掛けてやるために魅音の方を向くと、彼女はこちらを見て横向きに寝ていた。詩音も布団を整えるために、自然と魅音の方を向く形になる。
目の前で、自分とよく似た顔の彼女が優しい笑みを浮かべている。つり目がちで切れ長の目の奥にあるふたつの瞳はこちらをじっと見つめている。詩音は気恥ずかしくなって、魅音から視線を逸らしながら布団の中でもぞもぞと動く。こんなの、いったいいつぶりのことだろう。
ふいに、詩音は肩に手を回され、身体を引き寄せられた。声を上げる暇もなく、魅音の胸元にぎゅっと顔が押し付けられる。詩音は魅音に柔らかく抱き寄せられていた。
「みっ……魅音……?」
詩音は口では疑問を呈しながらも、抵抗するでもなく、ただ魅音の抱擁に身を任せる。詩音が目をぱちくりとさせていると、魅音はゆっくりと口を開いた。
「詩音……よかったね……悟史のこと……本当によかったね……」
あ……。魅音のその言葉が詩音の心の奥にまでじんわりとしみわたった後、詩音の目に涙が浮かんできて、それは零れ落ちる前に魅音の着物の中に吸い込まれていく。詩音にはそれを止めることができなかった。魅音の白い着物が涙でどんどん濡れそぼっていく。
この言葉を私に伝えるタイミングは、今日いくらでもあったはずなのに。それでも彼女はこうして、園崎本家に私を泊まらせるまでして、自分たち以外には誰もいない静かな部屋でふたりきりになって私を優しく抱きしめながら、その言葉を告げてくれたのだ。魅音の気持ちを理解すればするほど、詩音の両目から溢れる涙はどんどん量を増していく。
「本当は、ずっとこうして詩音と一緒に寝たかったんだ。詩音が怖い夢をよく見るって相談してくれた時から……。昔は詩音がこうして私をぎゅってしながら寝てくれたでしょ? 本当は、詩音のマンションに泊まりに行きたいって何度も思ったんだよ。でも、夜に婆っちゃを一人にはできないから、それは難しくて……」
魅音はささやくような声で詩音に語りかける。詩音が自分一人で抱え込むことに限界を感じ、魅音に悪夢のことを打ち明けて相談したのは、つい数週間前のことだった。あの日から魅音はずっと、詩音の苦しみを和らげてあげられる方法を考え続けていたに違いない。
「詩音は、いつか夢の中の自分と同じことを現実にしてしまうんじゃないかって言ってたよね。それが一番怖いって。でも、そんなことは絶対にない。詩音は……私のお姉ちゃんは、そんなことをする人じゃない。私は自信を持って、そう断言できるよ」
詩音は声を押し殺して、魅音の胸に抱かれながらひとしきり泣き続けた。口では私のことをお姉ちゃんと呼んでいるが、魅音はいつの間にか本当に私の"姉"に成長していたのかもしれない。私の知らないうちに、こんなに"お姉ちゃん"らしくなっちゃって……。
魅音と詩音。どちらが姉で、どちらが妹か。そんなことは二人の間ではもはや些末な問題でしかなかった。どちらも姉で、どちらも妹。二人の運命を分けたあの日を経てもなお、二人はどちらも"魅音"であり、そして"詩音"なのであった。いま目の前にいるのは、お互いにとってかけがえのない大切な――存在。
やがて溢れる涙が止まり、落ち着きを取り戻しつつあった詩音は魅音の胸から顔を離す。ふたりは再び顔を向かい合わせて見つめ合う。泣き腫らした目の詩音を見つめる魅音の表情はどこまでも優しかった。
「詩音、あのね。圭ちゃんから聞いたよ、伝言……」
「……監督にも言ったけど、生き残っちゃうと恥ずかしいね」
詩音は苦笑いを浮かべて魅音から視線を逸らす。
「私も、同じ気持ちだよ。それからね……」魅音は今度は自分の顔を詩音の胸元に埋め、そして言葉を続けた。「私はこの世界で、詩音に出会えてよかった……詩音が居てくれてよかった。そう思ってるから……」
この子は、本当に……ずるい。詩音は再び目頭に熱いものがこみ上げてくるのを堪えて、魅音の身体をぎゅっと抱きしめた。
そのまま、ふたりはいつの間にか眠りに落ちていた。詩音は悪夢など見ることのない、深く深く、そして優しい眠りの世界へと誘い込まれていくのだった。
5
朝、小鳥のさえずりが聞こえて詩音が目を覚ますと、自分の腕の中に魅音の姿はなかった。窓からは明るい太陽の光が差し込んでいる。詩音は布団から出て、部屋の襖を開けて廊下の様子を覗く。台所の方から音が聞こえるので、部屋を出てそちらに歩いていく。台所には既に学校の制服に着替えて髪型もセットしてある魅音がエプロンをつけて立っていた。
「あっ、おはよう、詩音。ちょっと待っててね、もうちょっとで朝ご飯できるから……」
詩音の姿に気づいた魅音が、明るく声を掛ける。その間も手際よく鍋をかき混ぜたり、フライパンを揺すったりしている。詩音は台所の壁に掛けてある時計を見上げた。時刻は午前七時を少し過ぎたところだった。
「……おはよう、お姉。私、顔を洗ってくるね」
詩音は挨拶を返して台所をあとにし、洗面所へ向かった。洗面台の鏡で自分の顔を見ると、目の充血はなかったが、まぶたがぱんぱんに腫れていた。昨夜のことを思えば想定の範囲内だが、それでも軽くショックを受ける。ええと、こういう時はまぶたを冷やすといいんだっけ。本当は泣いた後すぐにそうしないと意味がないのだけど。詩音は顔を洗った後、タオルを冷水で濡らして両目にあててみた。これ、どのくらいあててたら良いんだろう?
まあ、今日はどうせ学校は自主休校にするし、葛西に見られるくらいだろうから別にこのままでもいいか。そう思い直して、というか諦めて詩音は洗面所をあとにした。
着替えるために魅音の部屋に戻る前に、詩音は電話を借りて葛西に連絡を入れた。向こうも詩音を迎えに行くために園崎本家に電話をしようとしていたところらしい。八時頃、園崎本家に迎えに来てほしいと詩音は葛西に伝えた。
着替えを済ませて、魅音の作ってくれた朝食をいただく。昨夜のことを思うと、詩音は向かい合わせで座っている魅音の顔をうまく見ることができない。
「今日さあ、学校でみんなに"お疲れ様会"の都合を聞いてみるよ。まず次の土日を提案してみる。みんなの都合がわかったら詩音に連絡するね。その時、昨日できなかった詳しい相談をしようよ」
魅音は何事もなかったかのように、いつも通りの調子で話している。その後も今日は部活でやるゲームをどうしようとか、新しいボードゲームを持って行ってみるかなとか、そんなことを詩音に喋りながら箸を進めていた。詩音は相槌を打ちながら、魅音があえて普通の調子で自分に接してくれていることを感じ取っていた。
魅音が学校に行くのに家を出る時間とほぼ同じくして、葛西の車が園崎本家に到着した。二人で一緒に玄関を出て、正門までの道を並んで歩く。
「……魅音」
詩音は隣にいる彼女の名前を呼んだ。
「なに? 詩音」
彼女の返事を聞いて、詩音はひとつ呼吸を置いて。
「……ありがとう」
彼女の顔をきちんと見ることはできなかったが。詩音はどうしても彼女に伝えたかった言葉を伝えた。
「それは……こちらこそ」
魅音は少し恥ずかしそうに、髪を耳にかけるような仕草をしながら言った。その時、ざあっと心地よい風が通り抜け、二人の長い髪が揺れる。見上げた空は雲ひとつない快晴で、すでに夏空の色をしていた。深い青色の空はふたりの頭上にどこまでもどこまでも、遠く広がっていた。
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