きみのとなりに
約21,800 文字(読了目安: 約45分)
魅音と圭一が雛見沢分校で隣同士の席になるお話です。
昭和58年7月初旬頃、詩音が突如雛見沢分校に転校してきたことをきっかけに、圭一・レナ・魅音・詩音の上級生4人は席替えをすることになり……?
メインの登場人物は魅音・詩音・圭一となります。
レナ・沙都子・梨花の登場シーンも少しだけあります。
#1 転校-prologue-
それは、いつもと変わらない朝だった。
知恵先生が教室に入ってきたので、魅音はいつものように号令をかけた。下級生たちの元気な挨拶。今日もまた学校での一日が始まる。いつもと同じように。彼女はなんの疑いもなく、そう思っていた。
ホームルームの最初に知恵先生は、
「今日は新しい仲間を紹介します」
と言った。魅音はすぐに転校生だ、とわかる。知恵先生は廊下に向かって、入ってきて下さい、と呼びかけた。教室のドアをがらっと開けて顔を覗かせた人物を目にして、魅音の身体と思考はともに硬直した。
つかつかと教壇の上まで歩を進め、黒板を背にまっすぐと立つ。知恵先生がその人物の名前を黒板に書いていく。自分と同じ苗字。そして、自分とよく似ている名前。紛れもなく"転校生"は"園崎詩音"だった。
魅音が詩音の顔を凝視していると、その視線に気づいた彼女はにやっと意味深な笑みを浮かべて魅音の方を見た。
「園崎詩音さんです。本日より雛見沢分校で皆さんと一緒に勉強します。では詩音さん、みんなに挨拶を」
知恵先生に促され、詩音が口を開く。
「園崎詩音です。興宮の学校から転校してきました。クラス委員長の魅音の双子の妹です。よろしくお願いします」
そう言って詩音はぺこりと頭を下げる。丁寧な動作はエンジェルモートでの接客バイトの賜物だろうか。
「では、詩音さんの席は……前原君の隣が空いていますね。そちらにどうぞ」
「わかりました」
詩音がこちらに近づいてくる。魅音はいまだ思考がうまく働かず、唖然とした表情で詩音をじっと見つめている。詩音は魅音には見向きもせず、魅音の斜め前の席に座っている圭一に向かってにっこりと微笑みかけた。
「はろろーん、圭ちゃん。お久しぶりです」
「詩音! お前、なんでまた急に転校なんてしてきたんだよ?」
「まあ、色々とあるんですよ。お昼休みにでもお話してあげます。それよりお隣、よろしくお願いしますね」
自分の目の前の席に、詩音が座っている。彼女が今日の転校生なのだと言う。魅音の頭は目前の出来事に理解が追いつかなかった。雛見沢分校に転校するなんて、詩音の口からひと言も聞いていない。しかも、興宮の学校に通っていたって事あるごとにこの教室に乱入していた詩音だ。その真意がわからず、魅音はますます混乱していくばかりだった。
「詩ぃちゃん、久しぶり! 綿流しのお祭り以来かな、かな?」
魅音の隣、圭一の真後ろの席に座るレナも詩音に話しかける。そのまま詩音、圭一、レナの三人は他愛ない話で盛り上がる。それにどうしても乗っかることができない魅音だったが、すぐに詩音がちょっかいを出してきた。
「あっれー、お姉? お姉は私の転校を歓迎してくれないんですかー?」
そう言ってにやにやとした表情を浮かべる詩音。彼女が優位な立場にある時、よく見せる表情だ。魅音はそこでようやく口を開くことができた。
「あっ、あ、アンタねぇ! ちょっと、こっち来て!」
そう言いながら魅音はがたんと椅子から立ち上がり、詩音の腕を掴んで廊下に連れて行く。一時間目の授業までは少しの余裕がある。教室のドアをぴしゃりと閉め、魅音は詩音をきっと睨んだ。
「ちょっと詩音! 転校なんて話、聞いてないんだけど!?」
「そりゃあだって、サプライズですもん。驚きました?」
詩音はそう言って余裕たっぷりに涼やかに笑う。魅音ははぁーっとため息をついた。
「アンタねぇ……そんなにこっちが気に入っちゃったわけ?」
「はい。こっちに通えば毎日沙都子の面倒が見られるじゃないですか。最近カボチャ弁当の効果に手応えを感じてきていまして。沙都子の野菜克服計画を一気に押し進めようと」
にこにこと楽しそうに笑いながら詩音は語る。対照的に、魅音はとても笑うような気分にはなれず、がっくりとうなだれていた。その顔を詩音は覗き込んで、
「あるぇー? お姉は嬉しくないんですか? 私と毎日会えるようになって」
「嬉しくなーいっ! ほらっ、もう授業始まるから戻るよ!」
魅音はぷんぷんと怒りながら教室内へと戻っていった。彼女の背中に詩音は小さな声でぽつりとつぶやく。
「本当は、もうひとつ理由があるんですけどね――」
そのつぶやきは魅音には届かなかった。
#2 提案
詩音が雛見沢分校に転校してきた翌日。ほぼ自習スタイルで進む上級生の授業形式をしっかりと把握した詩音はその日の授業中、隣の席の圭一に自分からこっそりと話しかけるくらい、クラスの雰囲気に慣れてきていた。
「圭ちゃん、ちょっとわからない問題があるんですけど……」
「ん? どれどれ……って、上級生の問題が俺にわかるかなあ」
圭一の顔が詩音の机の上を覗き込むようにして詩音に近づく。その時、彼女は背後から刺さるような視線を感じた。紛れもなく、これは――。
その時、詩音の中の策略スイッチがかちりとオンになる。ここはひとつ、その視線の主にひと芝居見せつけてやろうか。
詩音は圭一の顔に自分の顔をぐっと寄せ付け、髪が触れそうなほどの距離まで迫った。顔だけではなく、身体も椅子ごと圭一の方に寄せ、机の上にわざとらしく胸を乗せてみる。
「ちょっ……し、詩音っ、そのっ……ち、近くないか?」
圭一が慌てて声を上げる。しめしめ、これはいいスパイスだ。詩音は背後を振り返りたい欲を抑えて、
「だって、小さい声でやらなきゃ駄目じゃないですか……?」
「そ、それはそうだけど……」
圭一はこういう押しには弱い。最後の上目遣いが特に効いたのか、観念してそのままの状態で詩音のわからない問題とやらを解説し始める。詩音が背後に感じている視線がだんだんと痛みを増す。おそらく睨みつけられているだろうと思うと、内心面白くなってくる。
「あっ、今のでわかりました。ありがとうございます、圭ちゃん。さすがですね」
「い、いやいや、大したことはねぇよ。も、もういいか?」
もういいかどうかは、後ろの席の反応を見ないことにはわからないが。詩音はこっそりと後ろを盗み見る。それとほぼ同時くらいに、レナが口を開いた。
「魅ぃちゃん、さっきからずっと手が止まってるよ? どうかしたの?」
「えっ!? あっ、あはは、あは、ちょ、ちょっと眠くってさぁ……ほら、お昼食べたばっかりだし!」
魅音はレナに指摘され、慌てて教科書をぺらぺらとめくり出す。そんな魅音を見て詩音は内心ほくそ笑む。彼女の策略は効果があったようだ。しかもかなりの。
圭一が魅音の想い人であることは、詩音はよく知っている。そして、魅音が相当の奥手であることも、よく知っている。だからこれくらいやって魅音には意識を高めてもらわないと困る、というのが詩音の言い分だ。なかなか進展しない魅音と圭一の関係に、彼女がやきもきしているのも事実である。
しかし、大胆な行動を見せつけて、意識を高めさせるだけで終わる詩音ではない。帰りのホームルームが終わって帰り支度を始めた魅音に、お姉バイトまでまだ少し時間がありますよね、と念押ししてから詩音は切り出した。
「ねえお姉、たまには席替えっていうのも良いと思いません?」
「ふぇ?」
詩音の提案に魅音は間抜けな声を出す。
「私も転校してきたことですし、お姉たちも気分転換にどうです? 席替え」
ちょっとした小芝居で意識を高めてもらった直後のことだ。乗ってくるだろうと詩音はたかを括っていたが、魅音は案外手堅かった。
「いやー……そういうのをやるタイミングは知恵先生が決めることだし、そもそもうちのクラスはめったに席替えしないよ。視力が悪くなったから前の席に行きたい、とかの事情がない限りね」
そんな委員長らしい言葉はいらない、と言ってしまいたくなるのを抑えて詩音は言った。
「クラス全体でやろうってわけじゃないです。私たち上級生、圭ちゃん、レナさん、お姉、私の四人の中だけで席替えしてみるのはどうです? っていう提案です。きっと新鮮な気持ちで授業が受けられますよ」
魅音は腕を組んで唸り出す。彼女は保守的なところがあるので、魅音らしいと言えば魅音らしい反応ではあった。
「わっ、レナたちも席替えするの? レナは魅ぃちゃんの隣好きだけど、席替えやってみるのもいいと思うな!」
魅音の隣で話を聞いていたレナが話に乗ってきた。詩音にとってありがたい援軍であった。
「なんだ? 席替えするのか? もちろん定番のくじ引きだよなあ?」
圭一も最初からやるつもりで話に加わってくる。詩音はAからDまでのアルファベットが書かれた席割り表と4本のくじを公開する。
「ええ、くじ引きですよ。午後の授業中に作ったんです。どうですかお姉、過半数が席替えに賛成してくれていますよ?」
「うーん……」魅音はなおも唸っていたが、ようやく決心がついたようだった。「わかった。それじゃあ今日は部活がない代わりに上級生の席替え! くじ引きは一度だけ! 結果には一切の文句を言わないこと!」
席替え実行の意志を固めた魅音は部長モードになってルール説明をする。その言葉を聞いて、詩音はにやりと笑った。
「ふむ。結果には一切の文句を言わない……。言いましたね、お姉?」
「なによ、詩音。なんか言いたそうだね」
「いえ、何でもないです」
詩音の浮かべた笑みの意味を魅音はこの時、知る由もなかった――。
#3 運命
「さて、それでは公平のために、誰か他の方にくじを持ってもらいましょうか……」詩音は教室内をきょろきょろと見回し、ある人物に目を留めて声を掛ける。「あっ、梨花ちゃまー?」
「みー?」
詩音に声をかけられ、梨花が席を立ってこちらに向かって歩いてくる。
「私たち、これから席替えをするんです。で、これがそのくじでして。梨花ちゃまにはこれを持っていてほしいのですよ」
「お安い御用なのです。にぱー」
梨花は笑顔で詩音から4本のくじを受け取る。その時お手洗いか何かで教室を離れていた沙都子が帰ってきて、何事ですの? と上級生四人の机に近づく。
「で、くじを引く順番は?」
魅音は詩音に尋ねる。
「そうですね。誕生日が早い順……っていうのはどうでしょう。私とお姉は同じですから、お姉から先にどうぞ」
圭一は四月、魅音と詩音は七月の初旬、レナは七月の下旬が誕生日だった。その順に梨花の手から一本ずつくじを引いていく。引いたアルファベットをもとに詩音が席割り表に名前を記していく。
教室の中央後ろを陣取る、上級生の島の新しい席割りが決まった。結果は――黒板側を上として、左上の席が詩音。右上の席がレナ。この二人が前の列で隣同士だ。そして、左下の席が圭一で、右下の席が魅音。この二人は後ろの列で隣同士、だ。
つまり詩音は左隣に移動し、レナは斜め右前に、圭一は真後ろに、そして魅音だけは席が変わらない……。そんな結果になった席割り表をひとり、食い入るように見つめて固まっている人物がいた。もっとも、その人物にとっての問題は自分の席が変わらなかったこととは別のところにあることは明白であった。
「おーい、お姉ー? どうしたんですかー?」
「えっ! い、いや、あの、その、えっと、そのっ……」
詩音にはわかっていた。部長モードになった魅音が自分で自分の首を絞めていたことを。もしくじを引く前に"結果には一切の文句を言わないこと"等という言葉を発していなければ、彼女は今頃こんなことをのたまっていたことだろう。
「あっ……あああ、あのさ詩音、くじ、もう一回やらない?」
魅音のことだ。彼女は臆病なところがあるので、降って湧いたチャンスをものにしようと考えるより先に、それを回避しようとするはずである。そして圭一がなんだよ魅音、俺の隣がそんなに嫌かよ、などと突っ掛かるはずだ。詩音にはそれが容易に想像できた。
だが、現実にそうならないのは、魅音が自身の発した言葉に縛られているからだ。もし魅音が部長モードにならなかった時は、詩音が事前に釘を差すつもりだったが、魅音自らが自爆してくれたのだ。サンキューです、お姉。
そう、梨花に持たせたくじには詩音の手により細工が施されていた。くじをどう引こうとも、必ずこの席割りになるようにしてあったのだ。自爆してくれた姉が以前ゲーム大会でくじにまったく同じような細工をしていたことは、詩音は知らない。
「結果には一切の文句を言わないこと……。そうでしたよね、お姉?」
「そ、そうっ、そうそう! これで席割りは決定! 圭ちゃんもレナも、明日からはこの席でね! ……あっそうだ!」魅音は何か思いついたようだ。「新しい席にみんな移動してみたら……!?」
部長の鶴の一声で圭一とレナはまとめた荷物を持ち、新しい席に向かう。詩音もさっと隣の席へ移動する。
「えへへ。ずっと魅ぃちゃんの隣だったけど、明日からは魅ぃちゃんの前の席かぁ。そしてお隣は詩ぃちゃん! はぅ〜! よろしくね!」
レナはニコニコと楽しそうに笑いながら新しい席の前に立つ。
「俺はここだな。一番後ろの席って落ち着くんだよなあ」そう言って圭一は新しい席の前で教室内を見渡す。「魅音、授業中に変なことしてくるんじゃねーぞー?」
その言葉を聞いて魅音の顔はかあっと赤くなる。彼女の脳裏には今日の授業中に見た詩音と圭一の姿が蘇っていた。
「へっ!? へ、へへへ変なことって、な、ななな何かなあ!? お、おおおおじさんゆーとーせーだからそんなことするわけないって……! うんっ、違いない、違いない!」
それじゃ、おじさんバイトがあるから! また明日! そう一気にまくし立てて、魅音は自身の通学カバンを引っ掴んで教室を飛び出していった。
「……魅ぃがまた何かヘンになりつつある気がするのです」
魅音の背中を見送った梨花はそうつぶやく。
「魅音さん、体調が悪いのですかしら? 顔が赤かったように見えましたのですけど……」
沙都子も心配そうに言う。
「あっはは。梨花ちゃま、お姉は元からヘンなので大丈夫ですよ。沙都子も、あのお姉が風邪なんてひくと思います?」
また自爆したわね、お姉――。次々と自分から面白い方向に墓穴を掘っていく姉を見て、詩音は内心、ゲーム感覚でとても愉快な気持ちになっていた。明日から魅音の残機をいったいいくつ用意すれば足りるのだろうか、面白くなってきた。詩音は今日一日、姉に仕掛けた一連の策謀の成功を心の中で噛み締めていた。
#3.5 動揺
どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
魅音の頭の中はパンク寸前だった。教室をあとにして家に向かって通学路を走っている間も、着替えて興宮のおもちゃ屋に向かって自転車を漕いでいる間も、ずっと頭の中から離れない。圭一の隣の席になってしまった、ということが。
おかげでおもちゃ屋のバイトではレジでの精算を間違えてお客さんに指摘されるわ、ギフト包装作業で箱をリボンだらけにしてしまうわ――。
「魅音ちゃんらしくないねえ」
と義郎おじさんから心配されて、魅音は早めにバイトを切り上げてもらう始末であった。
帰宅した魅音はすぐにお風呂場に向かった。お腹は空いていない。空いてはいるかもしれないが、胸がいっぱいで何も食べたくはない。湯船に浸かりながら、彼女はため息をつく。
圭一の隣の席になってしまった。とても嬉しいことのはずだ。今日の授業中に見た圭一と詩音の姿。詩音はちょっと大胆すぎるし、あんなやり方は頂けないけど……私も、あんな風に圭ちゃんに勉強を教えてもらえるのかな――。
そう思うと魅音の頭は沸騰しそうなくらい熱くなった。だめ、だめ、嬉しいけどやっぱり緊張する。圭一の隣になれたことは喜ぶべきことに違いないのだが、魅音は手放しで喜ぶことはできずにいた。
このままではのぼせそうなので、魅音は早々に浴室から出ることにした。髪にドライヤーの温風を当てながら、いつもより丹念にブラシを入れてブローする。いまお風呂で身体も髪も綺麗に洗ったし、私、ヘンな匂いとかしないよね……? 魅音はそんなことばかりが気になってしまうのだった。
白の着物に着替えて自室に戻り、魅音はそのまま布団を敷いて寝床につく。部屋の照明を消してからも、彼女は悶々としてしまい、なかなか眠りにつくことはできなかった。
席が隣同士って、どういうこと――?
詩音が真っ昼間の神聖なる学び舎に相応しいとは言えない光景を見せてくれたおかげで、変な想像ばかりが膨らんでしまう。
……ああっ、もうっ! 詩音の馬鹿!
魅音は頭から布団を被り、その中で丸くなる。早くなった自分の心臓の鼓動が聞こえる。緊張で全身には鈍い電流のようなものが絶えず走り、頭の中では取り留めのない考えがぐるぐると回転し続けていた。
結局、魅音は朝まで深い眠りにつくことはできなかった。
#4 登校
朝、水車小屋の前で圭一とレナはいつものように魅音と会った。しかし、魅音の雰囲気がいつもと違う。いつもなら通学カバンを肩に担いで堂々とした出で立ちでいるのに、今日はカバンを身体の前で両手を揃えて持って、俯きがちに佇んでいる。なんともしおらしい雰囲気の魅音であった。二人が朝の挨拶をしてもいつものような明るい声での挨拶はなく、
「……おはよう」
と、小さなつぶやきのような声しか返っては来なかった。
三人は学校に向かって歩き出す。いつもなら先頭を切って歩く魅音だが、今日は圭一とレナの後ろをとぼとぼと歩いている。レナは振り返って、心配そうに魅音の顔を覗き込みながら、
「魅ぃちゃん、今日は元気がないね? どうしたのかな、かな?」
「あぁ……うん、ちょっとね……。昨日、あんまりよく眠れなくってさ……」
「七月に入ってだんだん夜も暑くなってきたもんね。学校、無理はしちゃだめだよ?」
レナの言葉に魅音はこくん、と頷く。
「暑さで寝れなくて、っていうのはちょっと違うんじゃねーか?」圭一が口を開く。「魅音、お前昨日遅くまで深夜番組見てたんだろ。お前が好きそうなのやってたもんなぁ。夜更しで寝不足でーす、って言う方が正しいんじゃねーのか?」
そう言って圭一はにやにやと笑う。魅音は俯いたまま、言葉を返した。
「……私、昨日テレビ見てないもん」
それっきり、魅音は口を噤んでしまう。圭一は面食らったような顔になり、ぽりぽりと頭を掻いた。レナもますます心配そうに魅音を見つめる。誰が見ても、今日の魅音は普通じゃなかった。
やがて学校に到着し、三人は上履きに履き替える。魅音は圭一とレナに振り返りもせず、さっさと教室へと向かってしまった。圭一とレナは彼女の背中を追いかけるようにして廊下を小走りで駆ける。教室のドアが見えて圭一はあることに気づき、まさにそのドアを開けようとしていた魅音に、あわてて声を掛けた。
「おい魅音、開けるなっ……」
え? と魅音が振り返った時にはもう遅かった。彼女の頭の上に、ぽすんと四角い何かが落ち、その周囲に白煙が舞う。魅音の頭上は真っ白になっていた。
「みっ……魅音さん!? ごっ、ごめんなさいですわ! わたくし、今日もこれは圭一さんへの挑戦状として……!」
教室の中から沙都子の慌てた声がする。魅音は沙都子のトラップに引っかかったのだった。しかも、定番中の定番の黒板消しトラップに。
「みー……魅ぃがトラップに引っかかるなんて、この分校始まって以来、初めてのことなのです」
これが圭一であれば梨花は、かぁいそかぁいそなのです、と笑顔で言っているところであろうが、魅音がトラップに掛かったとあっては、どうリアクションをしていいものか、困惑しているようだった。
「あらあら、お姉の頭が今年初冠雪ですね。七月に観測なんて、異常気象じゃありません?」
詩音も先に学校に着いていたようで、席を立って憎まれ口を叩きながら教室の入口に近づいてくる。魅音は黙って頭の上に乗った黒板消しを手に取り、詩音を押しのけるようにしてゆっくりと黒板に近づき、黒板消しを元の位置に戻した。
「み、魅ぃちゃん。髪、きれいにしないとだよねっ。レナ、手伝うから一緒にお手洗い行こっ?」
レナが魅音に駆け寄り、教室の外に連れ出そうとする。二人は廊下に出ていき、女子トイレの方に消えていった。圭一はその後ろ姿を見送り、何がなんだかわからない、といった表情で詩音を見た。
「なあ、詩音……。今日の魅音、見ての通りなんかおかしいんだ。昨日、何かあったとか聞いてないか?」
「んー……昨日のバイトは早上がりしたとは聞きましたが。まあ、ちょっとした一過性のものでしょうかね。風邪とかではないですよ」
続きは席で、と言わんばかりに詩音は踵を返して自分の席に向かった。圭一もあとに続き、昨日のくじ引きで決まった新しい席に腰を下ろす。詩音はくるりと後ろを向いて、圭一の目をまっすぐに見て言った。
「お姉の隣の席になった圭ちゃんに、お願いがあります。圭ちゃんはいつも通りに、お姉に接してあげて下さい。そうする方が、お姉の回復も早いですから」
詩音は内心、ちょっといきなりやり過ぎたか、とほんの少しだが反省していた。自分がグイグイと行くタイプである分、奥手な魅音の慎重なペースをはかりそこねたのかもしれない。まさかこんなにお姉がおかしくなってしまうなんて。だが、今さら席替えを無しにすることもできない。圭一へのフォローをすることで、間接的に魅音へのフォローにもなるだろうと詩音は考えた。
「ああ……よくわかんねーけど、わかったぜ。俺は魅音に対して、普通にしてりゃいいんだな?」
「そういうことです。圭ちゃんまでヘンになっちゃったら大変ですから。私もお姉のことは様子見なので、今はとりあえずそういうことで」
それから少しして、魅音とレナが教室に入ってきた。魅音の頭部は綺麗に元通りになっていた。
「魅音、大丈夫か? 大変だっただろ、髪の毛から粉を落とすの」
圭一は魅音に声をかけてみる。
「あっ……う、うん。でも、レナが手伝ってくれたから……。いやー、沙都子のトラップを見抜けないなんて、部長として恥だよこれは」
視線は若干下を向いていたが、魅音は登校時よりは少しだけいつもの調子が戻っているように感じられた。レナが魅音の髪を整えながら、何か話を聞いてあげたのかもしれない。
その後すぐに知恵先生がやって来て、朝のホームルームが始まる。特に変わった連絡事項はない。一時間目の授業まで少し間があり、知恵先生がいったん教室を出て行くと、教室内は再び賑やかになっていった。
普通に、いつも通りに。そうは言われたものの、逆に意識してしまって何を話せばいいかわからない。圭一は窓の外でも見るふりをして、魅音から顔を背けてしまっていた。魅音も借りてきた猫のように、ちょこんと椅子に座っているだけで、二人の間に会話はなかった。
校長先生の鳴らす予鈴が聞こえ、一時間目の授業が始まった。科目は"多目的活動"と言って、国語や社会など通常の科目とは異なり、クラスメイトとのグループ活動やワークショップなどで社会性を身につけていくための授業だった。
知恵先生が口を開く。
「さて、今日は皆さんに、隣の席の人とペアワークをしてもらいます」
#4.5 友達
魅音が頭にチョークの粉を被ってしまったあと。レナは魅音を女子トイレの洗面台の前に連れてきていた。
「さて、と。レナが魅ぃちゃんの髪、綺麗に整えてあげるね。魅ぃちゃんはここに立ってじっとしてて」
レナはまず、洗面台の上で魅音の頭とポニーテールの付根の付近をぽんぽんと手で叩き、表面の粉を落としていく。昨日黒板消しを綺麗にしなかったのか、結構な量の粉がついていた。髪の内側にも入ってしまっているかもしれないと思い、レナは魅音に断ってから、ポニーテールを解いて髪をくしゃくしゃと撫で回すようにして髪の中の粉を払っていった。
「……昨日の席替えのこと?」
レナがぽつりとそう言うのを聞き、魅音はえっ、と聞き返す。
「放課後、席替えのくじ引きをやってからだよ、魅ぃちゃんの様子が変わっちゃったのは。やっぱり、その……圭一くんの隣の席で、緊張しちゃってるのかな、かな……?」
レナはおずおずとした口調ではあったが、それでも単刀直入に魅音の心情を言い当ててみせた。
「はは……レナには本当に敵わないな……」
魅音はそう言ってうっすらと口元に笑みを浮かべる。その表情はどこか儚いものだった。
「魅ぃちゃんが緊張するのもわかるよ。レナが転校してきた時からレナと魅ぃちゃんはずっと隣同士だったから、男の子の隣の席なんて、しばらくなかったもんね」
「うん……」
「でも、緊張してるだけなんてもったいないよ、魅ぃちゃん」レナはそう言って洗面台の鏡に映る魅音の目をまっすぐに見つめた。「これは圭一くんの隣の席を引き当てた魅ぃちゃんが掴んだチャンスなんだよ? もっと気を楽にして、圭一くんの隣の席になったことを楽しんでもいいんじゃないかな? 圭一くんも、きっと魅ぃちゃんといつもみたいに楽しく過ごしたいって思ってるはずだから。ねっ?」
そう言ってレナはにっこりと笑う。レナにそう言われると、魅音の心の中はすぅっと幾分か落ち着いていくのだった。
「うん……そうだね」
髪を解いて、普段と印象の違う魅音が鏡の中で笑った。レナはハンカチを濡らし、粉を払った後の魅音の髪を優しく撫でるようにして拭き上げた。そして自分のカバンの中からヘアブラシを取り出し、仕上げに魅音の長い髪を梳かして整える。
「魅ぃちゃんの髪って、きれいだなあってずっと思ってたんだけど、本当につやつや、さらさらで素敵だね。毎晩とっても丁寧にケアしてるんだろうなっていうのが伝わってくるよ」
レナは優しく魅音の髪を撫でる。魅音は恥ずかしいのか、少し顔を赤らめたまま何も言わない。
結ぶのは自分でやった方がいいかな? と、レナは魅音のヘアゴムを差し出す。魅音はそれを受け取って言った。
「……ありがとう、レナ。おかげで助かったよ」
それは、髪を整えてもらったことだけではなく。レナにはそれが十分伝わっているようで、
「どういたしまして」
と、満面の笑みで応えるのだった。
#5 授業
「我がクラスには、春には前原君が引っ越してきて、そして先日詩音さんも転校してきました。新しい仲間が増えた中で、皆さんがお互いのことをもっとよく知るために、今日はこういった発表の準備をしてもらいます」
そう言って知恵先生は、黒板に字を書いていく。知恵先生がチョークを置いた時、黒板には"他己紹介"という四文字の言葉が書かれていた。
「聞き慣れない言葉だと思いますが、皆さんはこれによく似た言葉を知っていると思います。初めて会った人にすることですね。わかる人はいますか?」
「……自己紹介?」
その声はおそらく富田だったと思う。知恵先生は正解です、と言って続けた。
「自己紹介は、自分のことを相手に紹介することですね。それに対して他己紹介というのは、他己、つまり自分以外の他の人のことを紹介することになります」
知恵先生は再びチョークを持って、黒板に文章を書いていく。"今日の活動……隣の席の人を知るための質問を五つ以上してみよう"という文章だった。
「今からインタビュー用のワークシートを配りますので、自分の名前と、隣の席の人の名前を書いて下さい。今日は一時間、隣の人とお互いにインタビューをしてみましょう。そして、そのインタビュー結果をもとに、隣の人を紹介する作文を書いてもらいます。それは宿題にするので、次回の多目的活動の授業で発表してもらいます」
困った時はすぐに先生に声を掛けてくださいね。その言葉で、ペアワークは開始された。インタビューだってー。何を質問したらいいんだろう? 名前この字で合ってる? 途端に教室は賑やかになる。魅音と圭一もプリントを受け取って、どちらからともなくお互いに顔を見合わせた。
「なーんかめんどくさそうな授業だなあ……」
そう言って圭一は苦笑いする。しかし、これは口から出まかせというか、圭一の本心ではなかった。他愛ない話からペアワークを始めるための突破口として、こう言ってみただけだった。本当は、魅音と互いに質問をし合うというのは面白そうだと圭一は思っていた。ただし魅音がいつもの調子を取り戻した場合、誘導尋問でとんでもない言質を取られる可能性もあることは恐ろしかったが。
「はは、違いない」
魅音は同調するが、彼女もまた、それが本心ではない可能性が非常に高かった。
「とりあえずこれに名前を書くか……えーと……」圭一はシャーペンを取って自分のプリントに名前を書き始めた。「前原圭一……っと。そんでこっちには園崎魅音……っと。よし。魅音も書けたか?」
圭一は魅音のプリントを覗き込む。魅音も二人分の名前を書き終えたようだった。魅音の字は今まであまりしっかりと意識して見たことがなかったが、丸っこくて可愛らしい字だった。そのまま本人に伝えようかと思ったが、なんとなく気恥ずかしかったので、圭一はやめておいた。
「えっ……と……と、とりあえずお互い少し質問を考えない? 五分後にインタビュー開始ってことで……」
魅音はいったん自分の中で質問を考え、後ほどシェアしようと提案した。しかし、圭一は反対した。
「えぇー、俺、質問が自分じゃ全然思いつかねえよ。喋りながら考えよーぜー」
「あっ、そ、そう? それじゃ、そうしよっか……」
魅音は簡単に折れてくれたが、それ以降会話がまた停滞がちになってしまった。魅音の言うとおり、まずはお互い自分の中で落ち着いて質問を考えた方がよかったかもしれない。圭一が口を開きかけた時、前の席からこんな声が聞こえてきた。
「ねぇ、レナさん? レナさんの好きな異性のタイプ……とかって聞いちゃってもいいです?」
詩音だった。ほかは小声なのに、"好きな異性のタイプ"という言葉だけ、周囲にもはっきりと聞こえるように強調されていた。
「しっ、詩ぃちゃん! そ、そんなのここじゃ話せないよぅ! 作文にも書いちゃやだからね! はぅ〜」
レナのそんな返事の言葉を聞きながら、後ろの席で圭一と魅音は二人とも固まってしまっていた。なんとも言えない沈黙の時間が二人の間に流れる。
「あっ……あー、えーと、えーと! す、すっ……好きな食べ物っ! 圭ちゃんの一番好きな食べ物教えてよ!」
またもや撃沈しそうだった魅音だが、詩音の放った石化の魔法から解かれ、なんとか機転を効かせて起死回生する。もし朝のレナによるフォローがなければ、今頃魅音はコンティニュー画面に突入していたかもしれない。
「おっ、おう……! 好きな食べ物だな! えーと……」
圭一も立ち直って魅音のインタビューに答えようとする。ぎこちないながらも、魅音と圭一は黒板に書かれている"今日の活動"を開始した。その後の質問も、趣味、特技、将来の夢など、当たり障りのない内容ばかりで、二人それぞれの回答も同様に無難なものばかりであったが、なんとか二人は授業の課題をクリアする。今朝の魅音の様子を思えば、それだけでも十分なように思える。
授業の終了五分前になって、知恵先生がペアワークの終了を呼びかけた。
「それでは皆さん、来週の多目的活動の授業までに原稿用紙一枚から二枚分、隣の席の人を紹介する作文を書いてきてください。何か困ったことがあったら、いつでも先生のところに相談に来てくださいね」
魅音と圭一が隣同士の席になって初めての授業は、なんとか無事に終わりを迎えたのだった。
#5.5 前日
「お〜姉っ! 今日、本家に泊まっていーい?」
それは先日のペアワーク"他己紹介"の作文発表の前日、朝のことだった。詩音がやたらニコニコとして魅音に抱きついてくる。魅音はなにか嫌な予感がして、詩音を引き剥がそうとした。
「なっ……なんでさ! こんな何でもない日にっ……!」
「だって明日までじゃないですか、作文の宿題。お姉と一緒にやりたいなーって、妹は思いまして」
嘘だ。顔にそう書いてあるし、その猫なで声も相当に怪しい。魅音は本当に嫌な予感が的中しそうで、きっぱりと断ることにした。
「悪いね、私はもう作文書き終えてるから。詩音も一人で頑張んなよ。こういうのは自分一人で書いた方がいいよ」
「へ〜え……私に本家に来られるのは困ると?」詩音は急に声のトーンを落としたと思ったら、今度は声を張り上げてこう言った。「あーあ、あの日のあれは何だったのやら。しお〜ん、今日本家に泊まってってよ〜ぅ。一緒のお布団で寝ようよ〜ぅ。そんなことを言ってたのはどぉこのだぁれだったんでしょうねえ〜?」
「はぁっ……!? ちっ、ちがっ、そっ、そんな言い方してないっ! っていうか最後のは言ってなーいっ!」
詩音が教室中に聞こえるかのような大きな声で言うものだから、魅音は慌てた。そのリアクションでは自分が言いましたと認めているようなものだ、ということに気づいていないのは魅音ただ一人だけだった。
「とっ、とにかく今日はだめ! 何でもない日には泊められないからね!」
「ぶーぶー。お姉のケチー。いじわるー」詩音は口を尖らせて文句を垂れていたが、突然何かを思いついたような顔になり、にやりと笑う。「……ねえ、お姉? ところでその頭の寝ぐせはいつ直すんです?」
「ふぇっ!? ね、寝ぐせ!? ちょっ、ちょっとっ、なんで今まで言ってくれなかったのよー!」
魅音は慌てて自分の頭部をまさぐる。魅音はすぐに騙されてくれるので助かる、と詩音は内心ほくそ笑んでいた。
「お手洗いの鏡でも見てきたらどうです? とーっても愉快なことになってますから」
「もーっ! いじわるはどっちだよー! 詩音のばかー!」
魅音は悪態をつきながら教室を飛び出して行った。その背中を見送って、詩音はすかさず一枚の紙を持って自分の席を立ち、魅音の席に座る。机の中に手を入れると、魅音の使っているクリアファイルがあった。それを取り出して中に入っているプリント類をぱらぱらとめくる。詩音のお目当てのものは二つ折りになってファイルの一番後ろに入っていた。詩音はそれを開いて書かれている文章に目を走らせ……その目を見開いた。
お姉のことだから、他ならぬ圭ちゃんを紹介する作文と言われても、どうせ委員長らしい真面目くさった文章を書いているものだとばかり思っていた。だから詩音は自分の用意した"圭ちゃんのハートを射止めちゃおう恋文さくぶん"と魅音の書いた作文をすり替えるために、園崎本家へ泊まろうとしていたのだ。想定外の出来事に弱い魅音なら、きっとそのまま紙に書かれた文章を読むことしかできないだろう。本当は今夜実行するのがベターであったが、この際仕方がなかった。
しかし、いま読んだこの作文は――。詩音は開いた紙を閉じてクリアファイルの中に元通りに戻し、クリアファイルを机の中に押し込む。自分の席から持ってきた一枚の紙をそのまま持ち帰って、詩音は自分の席に座り直した。
教室に戻ってきた魅音はさらにきゃんきゃんとうるさく詩音に文句を言っていた。寝ぐせなんてないじゃん! もーめちゃくちゃ焦ったんだからね! 詩音のばか、ばか、ばか! ……そんな魅音に詩音はにっこりと笑いかける。
「やるじゃないですか、お姉。私は良いと思いますよ」
「へっ? あ……うん?」
いったい何のことを言われているのかわからず、ぽかんとした表情を浮かべる魅音に、詩音はとびきりのウインクを送って見せるのだった。
#6 発表
"他己紹介"の作文発表はその日の四時間目の授業だった。お姉は緊張でまたおかしくなっているのではないかと、詩音は朝から魅音の様子を注視していたが、魅音はここ一週間ほどの中では一番落ち着いているように見えた。けれど、リラックスしていて気が抜けているという感じではまったくない。何か強い決意を内に秘めたような、魅音はそんな表情をしていたのだった。
「今日は、他己紹介の作文発表の日ですね。この一時間で全員の発表はできないので、今日は皆さんから見て右側の席に座っている人に発表してもらいます。左側の席の人は、来週の授業まで待っていてくださいね」
四時間目の授業が始まり、知恵先生が開口一番そう言うと、クラスの半数はほっとため息をこぼす。けれど、左側の席で一人だけ、安堵することができていない人物がいた。圭一だった。
圭一と魅音のペアでは、今日は魅音の発表となる。この時、圭一は魅音よりもずっと緊張していた。魅音が自分を紹介する作文を発表する。いったいどんなことを書いてきたのだろう。先週のペアワークを思い出せば、趣味とか特技とか、何でもない普通のプロフィールが紹介されるだけのことだとは思う。だから圭一はどうしてこんなにいま緊張しているのか、自分でもあまりよくわかっていなかった。
作文の発表は下級生から順に始まり、上級生は最後の発表になるようだった。時におもしろおかしい表現を交えながらも、自分の大切な親友だと沙都子のことを紹介した梨花の発表も、自身の的確で鋭い洞察力で捉えたことを丁寧で優しい言葉で表現し、詩音のことを紹介したレナの発表も、圭一はきちんと耳を傾けていたつもりだったが、いまいち内容がしっかりとは頭に入ってこなかった。ついに魅音の番が来て、魅音は静かに席を立って黒板の方へと歩いて行った。
「それでは今日の最後の発表は、魅音さんですね。お願いします」
知恵先生に促され、教卓の前に立った魅音は一度自分の手元の作文に目を落とした後、まっすぐに前を向いて口を開いた。
「はい。私はこれから前原圭一君について紹介をします」クラス委員長をやっているだけのことはある。魅音の声は明るくはきはきとしていて、とても聞き取りやすかった。「春に雛見沢に引っ越してきた前原君は、明るくてとても面白い男の子です。私たちが放課後にやっている部活では、最初こそビリばかりで罰ゲームの常連でしたが、最近では頭角を現してきています。私としては、罰ゲームで彼に恥ずかしい衣装を着せるのが楽しいので、そこだけはちょっと残念なんですけどね」
最初の滑り出しは良かったので圭一は魅音の発表に引き込まれたが、魅音がそこまで読んだところで教室のあちこちからくすくす、という笑い声が漏れるのを聞いて、眉をひそめて頬杖をつく。魅音のやつ……。やっぱり、そういう方向で来るのかよ。圭一はがっかりしたような気持ちとほっとしたような気持ちが混ざりあった、自分でもよく分からない気持ちを感じていた。
「そんな前原君ですが」魅音は緩んだ雰囲気になった教室が再び静まったのを確認し、さらにそこからひと呼吸おき、続けた。「普段はおちゃらけているくせに、いざという時には本当に強くて頼りになります。あ、喧嘩が強いとかそういうことじゃなくて、彼はとても意志の強い男の子なんです。仲間のために一生懸命になることができて、仲間を助けるためならどんなことにも物怖じせずに立ち向かっていく。そして、私たちを引っ張っていってくれる。そんな彼の背中は本当に頼もしいと私は思っています」
あれ……? 圭一はいつの間にか頬杖をつくのをやめていた。教室の雰囲気も先ほどまでとは変わり、皆が魅音の発表により集中していることが感じられた。魅音のやつ、なんだか紹介する相手のことをめちゃくちゃ褒めてないか? あ、それって俺のことか。……俺のこと? 圭一の思考はだんだんと混乱してくる。
その時、圭一は前方から強い視線を感じた。教室の前に立って発表する時は教室の後ろの方を見ながら話すといい、というアドバイスを以前知恵先生がしていたことがあるが、魅音は教室の後ろの適当なところを見るでもなく、他の誰を見るでもなく、圭一のことをまっすぐに見つめていた。圭一もそんな魅音から目が離せなくなり、魅音をまっすぐに見つめる。魅音はそれを待っていたかのようにして、再び口を開いた。
「今年、私は受験があってもうすぐクラス委員長の座を引退することを考えています。私は前原君になら、私のすべてを任せられると思っています。私は前原君しかいないと思います。――圭ちゃん、突然こんなことを、こんな風に伝えることになって申し訳ないけれど、今すぐに返事がほしいわけじゃないから、どうか真剣に考えてみてくれませんか――」
最後は紹介文とはちょっと違ってごめんなさい。これで発表を終わります。ありがとうございました。最後まではっきりとした声でそう言って、魅音はぺこりと頭を下げた。
「……つまり、次の委員長は前原さんってこと?」
ぽつりと、下級生の誰かがつぶやいた。それがきっかけとなり、教室はざわざわとし始める。
「そっか! 委員長は次の委員長に前原さんを選んだんだね!」
「すごーい! なんかサプライズみたい! こんな授業で発表するなんて!」
「えっ、でも真剣に考えてみてって言ってたよ? 決定はまだなんじゃない?」
そんな教室中の言葉が、圭一の耳に入っては反対の耳へと通り抜けていく。
「皆さん、静かにして下さい。まずは発表を終えた魅音さんに拍手を」
知恵先生のその言葉で、ぱちぱちぱち……とクラス全体から拍手が起こる。魅音は安堵と達成感の混ざったような表情で、圭一の隣の席に腰を下ろした。
「前原君、魅音さんが言っていたように、じっくりと考えてみて下さいね。先生も、前原君ならきっと良いクラスのリーダーになれると思います。いいお返事を待っていますよ」
知恵先生は魅音の作文の内容を事前に知っていたかのような口ぶりだった。圭一は半ば放心状態で、けれど心の奥に何かじんわりとあたたかいものを感じながら、知恵先生のその言葉を聞いていた。
「さて、今日の発表の皆さんお疲れさまでした。他の人に自分のことを他己紹介してもらうと、自分ではなかなか気づくことのできない自分の長所や性格、人となりを知ることができます。それは皆さんにとってとても大事なことです。なので、今日発表した作文は、ぜひ隣の人に渡してあげて下さいね」
それじゃあ四時間目の授業はここまでにします。知恵先生はそう言って持ち物をまとめて教室を出て行った。時刻は授業の終わりを告げる予鈴が鳴る数分前だった。教室中が賑やかになっていく。圭一が視線を感じて横を向くと、魅音が少し恥ずかしそうに微笑みながら圭一の方を見ていた。
「圭ちゃん、これ……」
魅音は椅子に座り直して身体をまっすぐ圭一の方に向け、二つに折った作文の原稿用紙を両手で圭一に差し出した。圭一はこの時とある決意を固めていて、余計な言葉は口にせず黙って魅音の方にまっすぐと向かい合い、両手でそれを受け取った。
#7 二人
「魅音、ちょっといいか。外……」
四時間目の終わり、そして昼休みの始まりを告げる予鈴を聞いて、圭一は席を立ちあがって魅音にそう言った。
「え、あ……うん……」
魅音もつられて椅子から立ち上がる。魅音の鼓動はとくんとくんと、その速度を徐々に上げていた。
「レナ、詩音、悪い。魅音と話があるから、みんなで先に弁当食べててくれ」
圭一の言葉に、レナと詩音は後ろを振り返る。
「うん、わかったよ。先に食べてるね」
「はぁ~い。二人とも、どうぞごゆっくり~」
すべてを悟ったかような表情であえて簡単に返答をするレナに対して、詩音だけは実に楽しそうに、にやにや顔でそう返答する。魅音はそんな詩音をじろっと睨んでから、圭一の背中を追って教室を出ていった。
圭一は魅音を校舎裏に連れてきた。魅音はそこで初めて、圭一の手に先ほど渡した自分の作文が握られていることに気づいた。
「あ、あのさ、魅音。その……これ、ありがとうな。ちょっと恥ずかしかったけど……へへ、まだ気が動転してんのか、ついここまで持ってきちまったぜ」
そう言って圭一は魅音の作文に目を落とす。その顔はわずかに赤くなっているように見えた。
「あっ……ご、ごめんね、その……みんなの前で急に……知恵先生には事前に相談して許可をもらってたんだけど……」
魅音も赤くなって俯きがちになりながら言う。魅音は数日前には作文を完成させていて、自分の引退について圭一とクラスの皆に伝える良いタイミングがなかなか見いだせないからと、知恵先生に個別に相談に行っていたのだ。その結果、知恵先生からは見事快諾を頂いたというわけである。
「いや、う、嬉しかったよ。魅音が俺についてどんな作文書いてくるのか正直ドキドキしてたけど……」
「あっ、あの、あのね、その……最後の返事って言うのは、ほんとすぐじゃなくて大丈夫だから……! 圭ちゃんの中でゆっくり考えてくれると嬉しい……から」
魅音は制服のスカートを両手できゅっと握りしめながら言った。その手のひらには両方とも汗がにじんでいた。
「……いや、いま返事をしようと思って、お前を呼び出したんだ」そう言って圭一は魅音の目をまっすぐに見つめた。「俺も男だ。こんなことを言ってもらって引き下がれるかよ。……魅音、俺、やるよ。お前のあとは、俺に任せろ。なんてったって、天下御免の園崎魅音のお墨付きだもんな!」
「あ……」魅音は圭一のそのまぶしい笑顔に、心の奥がきゅっと熱くなるのを感じた。魅音は圭一の顔から目が離せなくなっていた。「ほ、ほんとに……? いいの……?」
「ああ。男に二言はないぜ。魅音の代わりをしっかり務められるような、立派な委員長に必ずなって見せるよ」
「……ありがとう、圭ちゃん」
魅音ははにかんだような、けれどとても嬉しそうな表情でそう言った。圭一は魅音のその表情を見て可愛いな、と素直に感じたのだった。
「ところで……」その素直な気持ちに従って、圭一は手に持った魅音の作文に改めて視線を注ぎ、以前言葉にできなかったことを口にする。「魅音の字って、可愛い、よな……。こう、小さくて、丸っこくて」
「ふぇっ……!?」魅音は突然の発言に驚き、顔を真っ赤にする。「ちょっ……けっ、圭ちゃんっ……! そっ、そんなこと言ったって何も出ないからねっ!?」
しどろもどろになってきた魅音を見て、圭一は嗜虐心をくすぐられ、にやりと笑って続ける。
「いやあ、朝、学校に着いて下駄箱を見てみたらさ、こんな可愛らしい女の子の字のラブレターとか入ってたら最高だよなあ。んで、いったいどんな可憐な乙女からかと思って約束の場所に行ってみたら魅音がいるんだろ? 俺はてっきり男の純情を利用した新手のカツアゲかと……うわっと!?」
嬉々として喋っている最中の圭一の頭上に大きな影がふっと現れ、薄い鉄板のようなものが振り下ろされる。圭一はすんでのところでそれを回避した。魅音は両手でアルミかステンレス製のような銀色の板を持っていた。いったいどこから拾ってきたのだろう。こんなものがそのへんに落ちていたと言うのだろうか。
「ううううう……圭ちゃんのばかぁーっ! 私カツアゲなんてしないもん、しないもんっ!」
「わっ、悪い悪い、魅音っ……! からかい過ぎた……! あ、謝るからそのデカい鉄板はやめっ……うおっと!?」
そのままふたりはひとしきりじゃれ合って――もとい、魅音が圭一に襲い掛かり、圭一がそれから逃げる形で校庭じゅうを走り回った。夏の太陽はグラウンドを駆け回るふたりの頭上の、遥か空の上で燦々と煌めいている。ふたりの追いかけっこは、まだまだ終わらない。
#8 理由-epilogue-
あの日から一週間が過ぎようとしていた。それは時間割の中では稀少な科目である図画工作の時間で、下級生たちは校庭でこの校舎の外観の写生を行っており、上級生たちは教室で蓋付きの木箱を組み立て、それに絵の具で絵や模様を描いて"自分だけの小物入れ"を制作していた。
「ん~? 圭ちゃーん、それなに描いてんの~? うみぼうず? へ~え、さすが芸術家の息子だねえ。あまりにもゲージュツ的すぎて、おじさんにはわっかんないわ。あははっ!」
魅音は隣の席の圭一の作品を覗き込んで、けたけたと笑う。圭一は不機嫌そうにむっとした表情で魅音を見る。
「……魅音、お前……俺のこと本気で馬鹿にしてるだろ。これはオットセイだよ、オットセイ。……それよりお前こそどうなんだよ。さっきからピンク色の絵の具しか使ってないじゃねーか。ずいぶんとかわい~い女の子らし~い仕上がりになってるんだなあ~? いやあ、かわいい、実にかわいらしい」
「なっ……! い、いや、これはっ、これはね! べ、ベースの色をピンクにしただけ! うん! 他にもアクセントで別の色を入れる予定で……! っていうか、いいじゃん最終的には自分の部屋に置くものなんだからさあ!」
二人はすっかり、"いつも通り"の調子を取り戻していた。魅音は緊張することなく、そして圭一も戸惑うことなく、今までのように気軽に接することがようやく再びできるようになったのだ。これには本人たちだけではなく、主に魅音の異変を目の当たりにしていた部活メンバーたちも安堵を覚えていた。
授業終了まであと二十分もあるところで、魅音は早々に絵の具での着色作業を完了させた。パレットと筆、水入れのバケツを洗いに教室を出て、水飲み場の水道で道具を洗っていると、魅音の隣に人が立つ気配があった。
「圭ちゃんの隣、もうすっかり慣れたみたいですね」
「あ……詩音」
聞き慣れた声に魅音が顔を上げると、そこには詩音がいた。彼女も絵の具の道具類を一式持って水道をひねっているので、木箱の着色が終わったようだ。
「やれやれ、一時はどうなることかと思いましたが。お姉が元通りに戻ってくれて、妹は何よりです」
詩音のパレットから鮮やかな緑色の絵の具が水に溶けて流されていく。そこに黄色が混ざって、詩音の使っている水道の真下は萌木のような色に染まっていた。
「詩音……あのさ」魅音は自分の使っている水道の下では薄いピンクと赤が混ざり合って、ワインレッドのような深みのある色が広がっているのを見つめながら言った。「……ありがとうね。私、圭ちゃんの隣の席になれて、本当によかった……そう思ってるから」
「んー? なんで私がお礼を言われるんです?」
さすがのお姉も勘付いていたか。そう思いながら詩音はあくまでとぼけて見せる。
「だって、詩音でしょ? 私と圭ちゃんを隣同士の席にしてくれたのは……。詩音の作るくじが、公平で公正なわけないもんね」
そう言って魅音は詩音の方を向いて笑う。詩音は魅音の方には顔を向けず、ただ自分の手元を見つめているだけだった。
「ふーん……」否定も肯定もせず、詩音はただ曖昧な相槌を打ってみせる。「ま、圭ちゃんの隣の席になるくじを引いたのは紛れもなくお姉ですよ。私はそのきっかけを作ったまでです」
そう言って詩音は洗い終わった道具をまとめ、水飲み場をあとにした。教室に帰る道すがら、廊下の窓がひとつ開いていて、詩音はそこでふと立ち止まる。
――私がこの雛見沢分校に転校してきた理由。少しでも長く沙都子のそばに居たいということはもちろん大切な理由のひとつ。でも、それだけじゃなくて。
詩音はセミの鳴き声と風に揺れる木々のさざめきを聞きながら、夏の青空を見上げる。この分校にはもう一人、私にとって大切な存在がいる。詩音がその深い青色を見るのは、今年初めてのことではなかった。
お姉の隣には、どうか圭ちゃんが居てあげてほしい。そしてお姉のことをどうか支えてあげてほしい。圭ちゃんは私も見込んだ男。彼になら、安心してお姉のことを任せられる。
けれど、お姉の"隣の席"はもうひとつ、あるよね。そこにはずっと、生まれた時からずーっと、私が居るんだからね。いつまでも、大好きなお姉のことを見守っているから。幸せを願っているから。だからせめて、心だけでもそこにずっと居させてね。
――きみのとなりに。
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