大切なあなたに、祝福を。
約6,400字(読了目安:約13分)
園崎姉妹が誕生日に詩音のマンションでふたりきりで過ごすお話です。
こちらは2021年7月10日に園崎魅音・詩音のお誕生日お祝いとしてTwitterに公開した作品です。
昭和58年、7月のとある日曜日。
魅音と詩音はそれぞれ手料理を用意して、詩音のマンションの部屋でふたりささやかな"宴"を開こうとしていた――。
気がつくと、窓からレースのカーテン越しに差し込む光はいつの間にかオレンジ色になっていて、部屋の中は柔らかな優しい色に包まれていた。目の前にいる詩音の頬はなぜか少しだけ赤らんでいるように見えて、それは部屋に差し込む光のせいではないようで。
「ねえ、お姉? 私に……キス、してくれます……?」
「えっ……?」
魅音は自分を見つめる詩音の瞳から目が離せず、ふたりは見つめ合ったまま、ただ沈黙だけがその場を流れていった――。
***
玄関のチャイムが鳴り、詩音はかき混ぜていた鍋の火を弱めてぱたぱたと玄関へ駆けて行った。はーい、と返事をすると、予想通りの相手の声が聞こえる。
「詩音、来たよー。チーズケーキも受け取ってきたー」
詩音がドアスコープから外を覗くと、魅音が両手に荷物を持って立っていた。ドアチェーンを外してドアを開け、いらっしゃいお姉、と魅音に声を掛ける。
「わっ、詩音がエプロンしてる」
「わっ、て何ですか。失礼ですねえ。私だって料理くらいしますよ」
「だって久しぶりに見たんだもん、詩音のエプロン姿。まさか今日のために買ったわけじゃないよね?」
そう言って魅音はきしし、と笑う。
「お姉相手に見栄張ってどうするんですか。さ、上がって下さい。サラダとスープはもうできてますよ」
「ありがと。私も昨日頑張って作ってきたからね、料理。温めるのにキッチン借りるよー」
昭和58年、7月のとある日曜日。今日は魅音と詩音にとって特別な日で、今年はふたりだけでご飯やケーキを食べながらゆっくり過ごそうと何日か前に決めた。場所は詩音のマンション。詩音は当日調理できた方が都合の良いサラダとスープを用意する役割で、魅音は後からでも温めて食べられるようなメインディッシュの用意と、デザートであり、ある意味今日の本当のメインディッシュでもあるチーズケーキを1ホール、エンジェルモートから受け取ってくる役割だった。
「それで、お姉は何を作ってきてくれたんです?」
詩音が尋ねる横で、魅音は持参した袋から料理の入った容器を取り出していく。
「あはは。ベタだけどハンバーグとフライドチキン。詩音がサラダ作ってくれるから野菜は任せて、私はがっつり肉料理でいこうと思ってさ」
「随分たくさん作ってきましたね。明日から沙都子じゃないですけどカボチャ弁当生活かもですねー。お姉もうかうかしてると、太りますよ?」
「んなっ……! 食べる前からそういう話はやめてよ!」
そんなことを言い合いながら、魅音と詩音はふたりだけの"宴"の準備をしていく。ダイニングテーブルの上には所狭しとごちそうが並べられた。詩音が用意したサラダは新鮮なレタスやきゅうりの上にトマトやにんじんの千切りが添えられて彩りも良く、スープはどんな料理にでも合うような優しい味のコーンスープ。魅音が用意したハンバーグはふっくらと焦げ目つきで焼き上がっており、フライドチキンはジューシーに揚がっていて、どちらも見ているだけで食欲をそそる仕上がりだ。デザートのチーズケーキは、テーブルに乗らないので冷蔵庫に置いてある。
「飲み物まで考えてなかったですが、ちょうどジンジャエールを買ってあったので、それでいいです?」
詩音が冷蔵庫を漁りながら魅音に尋ねる。
「おっ、いいじゃん。シャンパンの代わりってことで。コップはこの棚?」
詩音がジンジャエールのボトルを、魅音がふたつのコップを手にしてダイニングテーブルに向かい合って座る。
「お姉コップ出して。私が注ぎますよ」
「ん、ありがと……って、ちょっ、ちょっと! 注ぎすぎ注ぎすぎ! こぼれるって!」
「あははっ。いいじゃないですか。今日はお祝いなんですから」
「もーっ、関係ないじゃん。ほら、詩音もコップ持って。さっきのお返し! ギリギリまで注いでやる!」
「ふふふ。私はお姉と違って器用ですから、一滴もこぼしませんよ」
ふたりはコップになみなみに注がれたジンジャエールを手にする。いよいよふたりの宴が始まるかと思われたが……。
「……ちょっと、これじゃ乾杯できなくない?」
「さすがに乾杯は無理そうですね。ひと口飲むしかないです」
「もーっ! これ詩音のせいだからね! まったく……」
ふたりは乾杯前であるが仕方なく、それぞれのジンジャエールをひと口飲んでコップの八分目まで減らした。魅音がひとつ咳払いをして口を開く。
「えっと、それじゃあ気を取り直して。……せーの、でいい?」
「いいですよ」
「じゃあ……せーのっ」
魅音の言葉を合図に、ふたりは声を揃えて言う。
「誕生日、おめでとう」
カラン、とコップ同士が触れ合う音。自然とふたりの口元に笑みがこぼれる。今日は魅音と詩音、ふたりの誕生日だった。ふたりだけのささやかな宴はようやく始まりを告げる。
「あっ、ハンバーグおいしい。お姉、なかなかやりますねぇ。フライドチキンも油っぽくなくていい感じ」
「えへへ。私もこれくらいはね。詩音のコーンスープも優しい味でおいしいよ。サラダもいろんな野菜使ってくれてるし」
お互いの料理を食べ合って、感想を言い合う。そんな姉妹であればほんの日常に過ぎないようなことが、離れて暮らすふたりにとっては年に一度くらいしか機会がないような、特別なことだった。家で一緒にご飯を食べることすら滅多にないふたりだ。特別なお祝いの日に手作りのごちそうを一緒に食べる。それだけでふたりは身も心も幸せに満たされていくようだった。
テーブルの上いっぱいに広がっていたごちそうを平らげたふたりは、冷蔵庫から本日のメインディッシュ、もといデザートであるチーズケーキを取り出す。詩音が紅茶を淹れるためにお湯の準備をしている間、魅音はケーキと皿、フォーク、ティーカップを居室のローテーブルの上に運ぶ。ケーキは居室でくつろぎながらつつくことにしたのだった。
「チーズケーキを1ホールで食べられるなんて夢のようですね。はぁ……生きててよかった」
「あははっ、そこまで? でもエンジェルモートのチーズケーキは本当においしいよね。シュランクベルタともいい勝負だよ」
紅茶の用意をする詩音を待つ間、魅音はケーキを切り分け、小皿に取り分けていた。やがて詩音がティーポットを片手に居室に入ってきて、デザートタイムが始まる。詩音の淹れてくれた紅茶はとても芳しい。あれだけのごちそうを食べた後でもケーキはやっぱり別腹で、格別だった。詩音は早々に二切れ目を自分の皿に取り分けている。遅れて魅音も二切れ目を取り分けた時だった。詩音はかちゃりとフォークを置いた。
「……去年の誕生日は、考えられなかったね」
「……」
詩音の言わんとすることを悟って、魅音もそっとフォークを皿の端に置いた。
「お姉とこんな風にチーズケーキを食べられる誕生日が来て、よかったな……」
「詩音……」
魅音は詩音の伏し目がちになった目元を見つめる。すると詩音はぱっと顔を上げてにっこりと笑った。
「なーんて。せっかくのお祝いの日にしんみりしても仕方ないですね。今のは無し無し。さーて、三切れ目行っちゃおうかなー?」
詩音の明るい声はどこかわざとらしいと感じるのは気のせいだろうか。魅音はすっかりケーキを食べる手が止まってしまう。けれど心配させないようにフォークだけは皿の上で動かしていた。
「あ、あのさ……詩音。悟史のところには毎週行ってるんだよね? その……どう? 悟史の具合は」
「ええ、昨日も行ってきたんですけど、相変わらず目は覚ましていないです。でも今週の検査結果は悪くなかったみたいですよ。監督の言う通り、少しずつ戻ってこようとしているって」
「そっか……」
失踪したと思われた想い人が見つかった。しかし病に倒れ目を覚まさない。詩音はこれまでとはまた別の辛さを抱えてしまっただけなのではないか。悟史の行方がわかってしばらく経った今、魅音はそれを心配していた。詩音は一刻も早く目を覚ました悟史と会いたいはずだ。詩音の心の辛さは、まだなくなっていないのではないだろうか――。
「魅音。あのね、私いま幸せなんですよ」
「えっ?」
「ごめん。さっきので心配かけちゃったでしょう。ちょっと気が抜けちゃっただけなんです。部屋でお姉とふたりきりでチーズケーキ食べてるなんて、こんなに安心できる時はないですから」
そう言って詩音は笑って続ける。
「悟史くんが診療所にいてくれて、悟史くんのためにしてあげられることがある。それだけで私、とっても幸せなんです。それに、私も悟史くんと一緒に頑張らないといけませんから。沙都子の元に……にーにーを帰してあげるためにも」
詩音の顔は穏やかで、それでいて強い意志が込められているようだった。それを見て魅音は杞憂だったと思い直す。
「それよりお姉? この夏こそは……するんですよね?」
続けて口を開いた詩音の言葉は重要な部分が抜け落ちており、魅音は聞き返す。
「えっ、何を……?」
「だーかーら。告白ですよ。圭ちゃんにっ」
そう言って詩音はぱちっとウインクをしてみせる。
「はぁっ……!? い、いやいやいや、そ、それはまだ早いって……!」
魅音は顔を真っ赤にして慌てる。
「まだ早い? じゃあ告白する意志はあるってことですね?」
「うっ……」
「善は急げですが、まぁ私たちは今年受験がありますからね。特にお姉は、恋愛にうつつを抜かしてる場合ではなさそうですねー」
「うぅ……詩音は私の何を応援してくれてるの……?」
「全部ですよ。恋愛はもちろん、受験もね。ふたりで同じ高校に行くんでしょ?」
そう言って詩音は魅音に笑いかける。
「……うん」
つられて魅音も笑って、頷いた。
「……あっ、そうだ! お姉、私こないだ雑誌で面白い特集を見つけたんですよ。えーっと……どこに置いたっけ……」
詩音はおもむろに立ち上がって本棚を漁り始めた。やがてお目当ての雑誌を見つけて、手に取って戻ってくる。詩音は魅音の隣に腰を下ろした。
「面白い特集って、その雑誌?」
「そうです。お姉に見せようと思ってちゃんとブックマークしといたんですよ」
詩音が開いた雑誌のページの見出しには――"キスする場所でわかる! キスの持つ意味とドキドキ男性心理"――と書いてあった。案の定、再び顔を真っ赤にしている魅音に、詩音はニヤニヤが止まらない。
「なっ……!? こ、こここ、こんなのを見せようと思ってたのぉ!?」
「ええ。こういうの面白いじゃないですか。それに、私たちの将来にもきっと役立ちますよ? ふふっ」
「しょ、将来って、なに……」
沸騰寸前の魅音を尻目に、詩音は特集記事の文章を読み上げていく。
「えーっと……まずは唇へのキス。王道のキスですが、これは深い愛の証……相手を特別な存在だと思っているということの表れだそうです」
淡々と文章を読み上げながら、詩音は魅音の様子を伺う。もともと魅音の反応を楽しみたくて見せようと思っていた記事だ。真っ赤な顔で、それでもなぜか真剣に耳を傾けている魅音の姿はたまらなく面白い。詩音は続ける。
「次に手へのキス。主に手の甲にするキスを指しますが、これは相手の女性への敬意、尊敬の念の表れだそうです」
「あ、映画とかでよく王子様がお姫様の手を取ってキスしてるよね」
なんだかんだ言って魅音は話に乗ってくる。
「そうですね。でもあれは手の甲だから良いのであって、同じ手でも手首なんかにするキスは、変な意味になっちゃうみたいですよ」
「ふーん……」
「次行きますね。次はおでこにするキス……。おでこにするキスには、祝福や友愛といった意味があるそうです。愛おしさや可愛いといった友情に近い心理だそうですよ」
そこまで読んで、詩音は雑誌の紙面を見つめたまま口を噤んだ。あれっと思った魅音が声を掛ける。
「詩音? どしたの?」
気がつくと、窓からレースのカーテン越しに差し込む光はいつの間にかオレンジ色になっていて、部屋の中は柔らかな優しい色に包まれていた。目の前にいる詩音の頬はなぜか少しだけ赤らんでいるように見えて、それは部屋に差し込む光のせいではないようで。
「ねえ、お姉? 私に……キス、してくれます……?」
「えっ……?」
魅音は自分を見つめる詩音の瞳から目が離せず、ふたりは見つめ合ったまま、ただ沈黙だけがその場を流れていった――。
相手の瞳の奥に、自分の姿が映っている。その光景をどのくらいの間、見つめていただろう。沈黙を破ったのは詩音だった。
「なーんて……ドキッとしました?」
そう言って詩音は茶目っ気たっぷりに笑う。
「ちょっ……詩音……!」
魅音の鼓動は少しだけ早まっていたが、いつもの詩音に惑わされただけだと思うと非常に馬鹿馬鹿しいと彼女は内心感じていた。
「ふふふっ。でも……キスしてほしいのは、本当ですよ」
詩音は再びまっすぐに魅音を見つめる。
「ふぇ……?」
「魅音……私におめでとうを、下さい」
「おめでとう、を……」
詩音が読み上げた雑誌に書かれてあった言葉を反芻して、そういうことかと魅音はすべてを悟る。子どもの頃はふざけてよくやったものだけれど……。この歳になって改めてこういうことをすると思うと、妙に気恥ずかしいものがある。
だけど、今日は特別な日だから。一年に一度の、私たちの大切な記念日だから。詩音がそれを望むなら――。魅音はひとつ咳払いをして、無言で目の前にいる詩音の額に静かに口づけを落とした。
「こっ、これでいい? 二回はやらないよ?」
魅音は照れ隠しにそんな言葉を詩音にぶつける。
「うん、十分です。ありがとう、魅音」
そう言って嬉しそうに微笑む詩音の顔はなんだかとても綺麗で、それを見て魅音はますます気恥ずかしくなるのだった。
「じゃ、私からもあげますね。お姉に、おめでとうを」
そう言って、詩音は魅音を優しく見つめながら、魅音の頬に片手を添える。とくん、とくんとその速度を早めていく鼓動に少し戸惑いながら、魅音は額に詩音からの優しい口づけを受けた。
再び見つめ合ったふたりは、こつんとお互いの額を重ね合う。どちらからともなく笑みがこぼれる。だって、目の前にいる大切なあなたから口づけをもらった場所は、とても――。
「……あったかい」
その声の主は、ふたりだけが知っている。
「うん……あったかいね」
その返答の声の主もまた、ふたりだけがわかっている。
幼い頃のあの日から、ふたりは親も知らない大きな秘密を抱えて生きていくことになった。"魅音"の身体に刻まれた"鬼"の印により、ふたりの運命は引き裂かれた。しかし、ふたりの絆は引き裂かれることなく、"魅音"に与えられた園崎家次期当主という大きな使命も、"詩音"に与えられた忌み子という宿命も、ふたりで分け合って背負い、今日まで生きてきた。一方だけが苦労をするのではなく。一方だけが肩身の狭い思いをするのではなく。"魅音"の辛さも、"詩音"の辛さも、ふたりで分かち合ってきた。
そんなふたりだからこそ、今日というこの日にお互いを祝福し合えるのだろう。優しく、あたたかい祝福を贈り合えるのだろう。
「お姉ちゃん……私と一緒に生まれてくれてありがとう」
「それはこちらこそ。詩音、ありがとう……」
ふたりだけの秘密は今日もまたひとつ、ふたつ、増えていく。レースのカーテンから差し込む柔らかい夕明かりが、ふたりの今日という日をいつまでも優しく見守っているようだった。
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